国登録有形文化財 旧石田家住宅
- 歴史西国街道に面して建つこの住宅は、切妻造で三面に庇をまわし、表構えに格子と出格子を並べ、大屋根の下の白壁に2か所の虫籠窓(むしこまど)が開いています。 間口が広く田の字形の間取りは、京の町家と違い、農村風で独特の風情があります。この住宅は、店舗と住まいを兼ねた町家で、町家独特の風情をもち、古い街道筋の面影を今に伝えています。平成12年10月に規模が大きく、江戸時代末期の町家建築の基準となるものとして国登録有形文化財に登録されました。玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙だしや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した座敷等が往時のまま残されています。
この住宅は、神足村の旧家岡本家一族の商家で、江戸時代には「紙屋清兵衛」と、いう屋号で和紙などを商っていたようです。明治以降、町医者などに利用されていたものを、後年になって石田家が購入。平成15年長岡京市が取得し、「神足ふれあい町家」として整備しました。
- 解説虫籠窓(むしこまど)
江戸時代には 本格的な二階を持つ商家や民家は、『町人が武士を見下ろさず』の禁制から建築されず、高さを抑えた中二階(厨子二階)として主には物置き部屋として利用されていました。特に厨子(つし)二階と呼ばれる商家の中二階は、厨子二階の形状や、通風と明かりとりのために設けられた虫籠(むしこ)窓の形状は建築時期によって異なる為、建築様式の変遷を知る目印として大変興味深いものです。その形は、丸形(江戸中期)→横長丸形(江戸後期)→長方形(明治)→軒高・長方形(大正)江戸時代中期には木爪形(丸形)であったものが、江戸時代後期になるに従い長方形に変化し、明治・大正期にはさらに高さが高くなってきます。大正期に入ってから本格的な二階建て民家が建てられ、昭和に入ってから硝子窓が普及、その様式は姿を消すことになりました。西国街道
西国街道は、京都市の東寺口を起点に向日町、神足、山崎、高槻、茨木を経て、兵庫県西宮市で中国街道とつながる江戸時代の幹線道路です。絵図や古文書では、「山崎街道」「唐海道」とも記されています。現代につながる西国街道の道筋は、豊臣秀吉による朝鮮出兵に際し、軍勢や物資を前線基地である肥前名護屋へ大量に送るため拡張・整備されました。乙訓地域には、商人や職人が軒を並べた町場が北から向日町、神足、山崎にありました。神足
東寺口を出て2里目(約8㎞)にあたり、一里塚の地名が現在も残っています。 神足は、江戸時代初めに永井直清が築いた神足館の城下町として、街道筋に町場がつくられたようです。商人や職人が軒をならべていた江戸時代の様子が村絵図に描かれています。国登録有形文化財
国登録有形文化財とは 平成8年に新しく設けられた制度。建築後50年を経過し、造形の規範となっているものや再現することが容易でない文化財として国が登録した文化財をいいます。